小夜啼鳥の歌
私には物心ついた頃から、どうにも厄介なものが二つ、張り付いてしまって取れない。
一つは「これは嘘だ」という確信めいた感覚だ。現
実感と呼ぶものについぞ覚えが無く、いつもピントがずれている気がしてならない。なんだかどれも空っぽな感じがするのだ。
そのくせ勉強をしようが習い事をしようが押さえるべきポイントがすぐに分かっていまい、人一倍以上に簡単にこなせるのだった。
だから、裏技まで全て解き明かしてしまったロールプレイングゲームのような、不毛な感覚が付き纏って仕方が無いのである。
色々と試みてはみたものの“現実感の喪失”はいまもって拭えないままだ。
「おお、お主夕飯をこさえているのか。善き哉(かな)、善き哉。食は心を豊かにするものじゃ」
つらつらと物思いにふけりながらキッチンで包丁を振るっていると背後からひょい、と覗き込む気配があった。
「なんじゃこれは」
「ナマコを酢の物にしてるの。あと、これは明日のお弁当のおかずよ」
「けったいじゃのう。かように不気味なものを口にせずとも良いではないか」
「安かったの。いいじゃない」
「やれ、このようなものまでひっぱりこむとはのう。まっこと巧みの技というべきじゃな。
それとも余計なものこそ心の支えと考えたのか」
彼女はいつも通り、訳の判らないことを一人で納得しながら、ひっきりなしに話しかけてくる。
「ふぅむ」
彼女は包丁を振り下ろされる間近に顔を寄せてしげしげと眺めた。今にも怪我しそうなのに全く構う様子はない。
不用意にナマコに触れる手に包丁が振り下ろされた。
「わしは喰わぬぞ。うむ、喰わぬ」
「あなた食べられないじゃない」
振り下ろされた包丁は彼女の手をするりと抜け、哀れなナマコが更に細かく刻まれる。
誰も彼女に触れられず、私だけにしか見えない存在。それが、もう一つの“厄介なもの”であった。
艶やかな黒髪に煌びやかな装束。顔立ちは少女のようであり、既に子をもうけた妙齢の女性にも見える。
彼女は形の良い鼻でふふん、と笑った。
「ばかもの。供えられても困るという話じゃ」
彼女の名をアマテラスという。
…アマテラスの存在を自覚したのはいつだったか。
気付いたらそこに居た。彼女はとりとめなく喋るだけでさして実害もない。
私の希薄な人間関係において唯一の話し相手と呼べる存在であった。
「あなたとはいつから一緒だったかしらね」
校舎の屋上、弁当をつつく箸を休めて、まともな返答を期待しないまま問いかけた。
「そもそもなんで役に立たない超能力みたいなあなたが私についているのか、よくわからないのよね」
太陽を背にふわふわと飛ぶアマテラスは微笑する。
「役に立たぬとはご挨拶。人心の安寧と共に在るのがわしらの本質、現(うつつ)への干渉などに期待するでない。
しかも今のわしは分社された身、そなたら風に言えばコピー&ペーストみたいなものじゃよ」
いつも通り意味は全くわからないが、あまりの物言いに思わず吹き出した。
アマテラスも、名で表す通り太陽を思わせる笑みを零す。
「随分俗っぽい知識をもった神様もいたものね。胡散臭いかみさま口調もそれかしら」
「なに、神というものの存在は人の裡に在るものじゃ。人の精神が変容すれば神の姿も変わるもの。
知識もまたしかり、当世の流行であろうが皆の心にあればわしも同じく知る、そういう道理じゃよ。
どれ、流行の踊りの一つでも披露して進ぜようか? 滅多に無いぞ」
アマテラスはテレビで良く見るアイドルグループの踊りを真似て、しなを作った。
「結構よ…それにしても安寧ねえ」
苦笑交じりに溜息を吐くと、アマテラスはぷんぷんと憤慨した。
「むむむ、信じておらぬな」
「だって私の“現実感のなさ”に、これっぽちも安らぎなんてないし、あなたが役に立っているとは思えないから。
切実な問題なのよ」
抗議に対し、アマテラスはどこか感嘆した風情で首を縦に振った。
「なるほどのう。そうまで思い詰めさせるとは、書割(かきわり)の世でありながらわしが居るのもやはり頷ける。
…よいか、そなたの苦しみはそなたの宿命、背負った役目ゆえ仕方なき事であろう。
おぬしはこの世界の一端でありながら、同時に世界を管理しておる。
あまり“いれ込まぬように”と施された処置といったところじゃな。
あまり気に病むでない」
「…? よくわからないけれど…なんで云いきれるのよ」
「すまぬが教えられぬな。ここで生きる間は、知らぬ方が良いじゃろう」
結局いつも通り、一人で喋って一人で納得してしまうのだからうんざりしてしまう。
「ほら、やっぱり役に立たないじゃない」
「むむむ…これは沽券(こけん)に関わるの。ならば助言して進ぜよう。そなたはもっと愉しむべきじゃな」
「出来たら苦労しないわよ…」
「では」
底抜けに明るかった彼女の口調がはたと変わる。厳かな声音に背筋が自然伸び、私と彼女の眼がかち合った。
「歌を。覚えておくと良い。歌があれば、心はいきていけるものじゃ」
そう云ってアマテラスは笑った。
アマテラスはひとつの歌を私に教えた。日の昇るとき、夕闇が訪れるとき。彼女は歌い、そして私も歌った。
その歌は静かで、厳かで、でも朗らかで、郷愁を誘うような、不思議な旋律だった。
訳もなく涙が零れそうで、それでいて笑わずにはいられない。原風景、そういう表現が適切かもしれない。
幾日も幾日も歌う内に、やがて覚えてしまうのだった。音痴じゃなあと、アマテラスには馬鹿にされたけれど。
歌の名を訊くと彼女は少し照れくさそうに教えてくれた。
「小夜啼鳥(さよなきどり)の歌という。そなたも聞いたことがあるじゃろう?
わしが引き篭もっておった時に皆が歌ったもの。恥ずかしいから内緒じゃ」
「でも、良い歌ね」
「そうじゃな。このような世界でも、そう思えるなら、そなたの旧き記憶にはこの歌があったのじゃろうな」
アマテラスは優しく笑い、私もこの不可思議な存在をとても身近に感じた。
歌が彼女との距離を縮め、私の心はどこか開放されたようだった。
そしてその日もハミングしながら、茜色に染まる街を帰路に着く途上であった。
「でも、アマテラスが歌って私の心が開放されるなんて、逆じゃないかしら」
「どちらが篭り、どちらが外にいるか、詮無きことよ。それは見方の違いというもの。
まことに肝要なるは、両者が共に在りたいと願うか否か。岩戸を越えるつもりが在るかじゃよ」
「一理あるけれど、あなたが言うとどうにもね」
「むむむ、そなたは畏敬の念というものをじゃな――」
――警告。管制端末は起動せよ。
唐突に、耳障りな声が直接脳に響いた。ジリ、と唐突にノイズが走り視界が歪んだ。
はっとして周囲を見ると、急速に全てのピントがぼやけてゆく。その中でアマテラスだけがくっきりと映っていた。
私は混乱し、すがるように彼女を見据える。
アマテラスは起こってしまったか、と寂しそうに呟いた。
「…どうやら別れのときが来てしまったようじゃ。こちらとあちらの時は同じからず…だが間に合ってよかった」
「えっ…? 」
「人の心が確かに在るならば、わしは居る。この手狭な世界でも。
なればこそ、そなたに歌を托せたことは何よりの幸いであった」
「なにを云っているの…」
「もはや話す事は叶わぬだろう。あちらは広いでな、薄く延べられてしまう。だが、話せずとも。
わしは、そなたらの心ある限り、共に居る…忘れるでないぞ」
彼女はいつも通り勝手な事だけ言い、私の意識は瞬断された。
※
はっと、眼を覚ました。体を捻ろうと試みるが、棺桶じみた狭い空間にはめ込まれていて碌な身動きができない。
頭蓋に食い込むヘッドセットモニターが異常事態の発生を告げている。
全身に繋がれていた生命維持チューブは、事態への対応を期待して既に役目を終えていた。
そうだ、ここは―――。
急速に強引に、理解させられ理解した。今居る場所、私の使命、あの世界の意味―――。
脳裏に叩き込まれるリアリティ、その落差に恐怖めいた感情がせりあがる。
「アマテラス? 」
呟く言葉に返答はない。当然だ、超常など在り得べきではない―――ここは、現実であるのだから。
そして私が眠りから覚めねばならない事態の発生をモニターから即座に読み取った私は、
対応行動を開始すべく管制者権限で拘束を解き、棺桶の蓋を開く指示を出した。
棺桶(管制者用カプセルという名だと思い出した)から裸のまま這い出し、ようやく両の足で立つ管制室は、
アラートが明滅するモニターが唯一の光源の、ひどく寂しい空間であった。
無理からぬ事である。光は、生物が活動するためのもの。
今現在この場において、眼球という感覚器を必要とする者は居ないのだ。
地下数万メートルの大深度地下施設“プリミティ・ブライド”…それがこの場所の名である。
管制室のガラス越しに見る広大なドームは真闇に閉ざされているが、強化された感覚器を持つ半人類の私には、
冷凍保存カプセルが居並ぶ様子から岸壁に張り付く“フジツボ”をつい連想するほどに、はっきりと見えている。
(私は――)
ようやく私の脳(便宜的にそう呼ぶとしよう)の再起動処理が完了し、完璧に現状を認識した。
ここは…汚染されつくした世界が浄化されるまで、ある者は冷凍保存され、
ある者は遺伝情報をもった冷凍受精卵の状態で保管されている。
そう、一言にシェルターとも箱庭とも呼ばれる人類種滅亡の回避を目的とした施設だ。
地上の、当時日本と呼ばれていた地域に住む全ての者がこの施設に格納されている。
そして私は、施設の管理用デバイスの一つである。そう、思い出した。
ぶるる、と背筋が震えた。
あれ程切望していたのに、この夜の国が発する圧倒的な現実感に出来る対抗がそれぐらいしかなかったからである。
現実――冷凍状態でここに格納されると同時に――彼等は今、向こう側に居る。
つい先程まで私が一介の学生として存在した世界――
名を“タカマガハラ”と呼ぶ疑似世界に、彼らの精神だけが活動をしている。
彼らの肉体時間は殆ど停止している。だが完全な停止は技術的に不可能で、ほんの僅かずつ成長もしくは老衰している。
そのやむにやまれぬ事情においては、精神活動が必要となるのだった。
精神活動を停止させると、肉体も死ぬ。故事にあるとおり肉体と精神は不可分ということ――
生きる意志がなければ肉体が自壊するルールはいかな科学をもってしても覆せなかった。
問題の対処には、現実に影響を及ぼさない範囲での精神活動の場が必要であった。
そう、つまり――
あの世界は全て作り物であり、人類が精神活動を行う為に“過去からそっくりそのままコピーして再現した妄想の世界”であった。
あちらに居た何千万人もの人は皆、このドームで眠り続ける冷凍人間であり――
そしてそれは生体部品で構成された私も同じ事――
私もあの世界の一員だったのだ。異常事態の発生で、私だけがこちらに呼び戻されるまでは。
「………」
結局のところ…拭えなかった“ずれ”は、管制端末であるが故に、
あれが偽者だと心の奥底で理解していた事に起因するのだろう。
打ちひしがれた思いのまま訪れた中央演算室、その統合管理システム“オモイカネ”の出した状況の詳細と回答に、
事態の深刻さを悟らされる。
私は管理用デバイスの一つである。より正確に云うならば――最後の一つ。
予備端末は全て不能となっており、地上の観測機器からの通信も断絶していた。
原因は全て、経年劣化――修復を施す機構すら風化し尽くされていたのであった。
そして最悪な事に、私を呼び起こされるに至った原因は“それ”ではない。
施設内の循環系統の経年劣化によって発生した瘴気じみた濁りによるのだった。
もはやこの施設も、冷凍保存された人々も、長くは無いことだけが明白で、一切の打つ手は手遅れであった。
――ひどい話だ。取れる手段を失ってから、こちらに呼び戻す…あるいは置き去りにするなんて。
それならばあちらの世界で眠るままに死ねた方がどれほどか楽だったろう。
「うぅ…」
誰も居ない施設をふらふらと徘徊する。
あちらこちらをしらみ潰しに調べたが解決策は無い。
この施設と地上を繋ぐ…塞ぐ、隔壁。岩戸じみた厚さ数十メートルの鋼鉄の扉が重々しく立ちふさがり、文字通り糸口すらない。
扉は、外の環境が浄化された事を示す信号を受け取ると自動的に開く仕組みになっている。
外からの信号そのものが途絶した今となっては開く事はなく、力づくで開ける設備も故障している。
完全に、状況は閉塞していた。
――とても静かだ。
手立ての無い私は途方に暮れたまま、人々が眠るドームの端っこに座り、そして間延びした時間がとめどなく流れた。
ひどく、孤独だった。戻されたくなど無かった。
こちらが現実であろうが、あちらが嘘であろうが…たった一人は、どうしようもなく恐ろしい。こんな現実ならば、要らなかった。
『歌を』
ふと、アマテラスの言葉が思い出された。
自らの存在すら危ぶまれる暗闇の中でただ、私は生きているのだと主張をするためだけに、震える唇を開き、歌った。
小夜啼鳥の歌。
誰もが眠るドームはまるでコンサートホールのようで、歌声は彼らのカプセルに反響して何処までも何処までも響く。
まるで、皆が歌っているようだった。
歌い続けていると、不思議と心が凪いでいった。
――あちらの世界が嘘でも――アマテラスは歌を教えてくれたのだ。
彼女とのつまらない会話が思い出されて、笑いすらこみ上げる。
どうせこの場所には誰も聞く者がいないのだ、ヘタクソでも誰に文句を言われることはない。
少しだけ気を取り直し、もう一度“オモイカネ”に尋ねた。そして一つだけ、やり方はあるかもしれなかった。
外からの情報を受信出来なかったが、送信する機能だけは生きている。
そして、誰が居るとも知れぬ外に向かって、歌い続けることにした。
とても分の悪い賭けだけれど、なに、私は疲れることはないのだ。
もしかすれば、この歌を聞いて、向こう側の誰かが。
――少しでも長く、歌い続けるために。
施設の残された機能をやりくりさせた。
目覚めた時からずっと一糸纏わぬ私が右往左往する姿は、誰かが見れば踊っているように見えたかもしれない。
歌っていると、不安は消えていった。
――ああ、アマテラスの言っていた”歌があれば心は生きていける”という言葉は本当だ。
そして確かに、彼女の存在が今となっては私の心の安寧に一役買っている。
叶うならば彼女にもう一度会いたいと願う。けれど、歌っていれば彼女と共に在るようで、とても陽気に歌い続けられた。
私は今、あのとき本当に欲しかった“現実感”を手に入れたのだ。
それこそは何物にも代えがたい、彼女と私の思い出の証だ。
――ごうん、と鈍く響く音が、届いた。
「――! 」
私は慌てて、岩戸の前へと走った。すると、あれ程重苦しく思え岩戸が僅かにずれ、そして少しずつ、確実に動いていった。
閉じた世界に鬱積(うっせき)していた穢れが、祓われてゆく。
光が満ちる。
圧倒的で、力強い、それでいて柔らかく包むような輝きが、両の眼に飛び込んできた。
「ああ――」
冷凍保存カプセルから、目覚めを告げるアラート音が響き渡った。
私は自らの役目も忘れて、ただ岩戸の先を呆然と見ていた。
――黎明が訪れる。遠く見果てぬ先から、懐かしくも美しき太陽(アマテラス)の姿が――。
-了-
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